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01 パノラマライン 02 シャクナゲ園 03 池ノ平・高峰 04 湯ノ丸山 05 根子岳・四阿山 06 万座 07 本白根山 08 バラギ湖 09 その他 10 冬のイベント 11 スノーシューツアー |
初詣北軽井沢ブルーベリーYGHの年中行事の一つ、三大宗教お参りツアーを今年も行いました。ここでいう三大宗教とは、仏教・神道・キリスト教です。オウム事件などのカルト宗教が世間を騒がせて以来、すっかり宗教のもつイメージが地に落ちてしまいましたが、ここ嬬恋村の歴史は宗教を抜きにしては語れません。というのも浅間大爆発で人口の8割を失うほどの被害をうけた鎌原村ですが、奇跡的に生き残った2割の人たちは全員、鎌原観音堂に非難して生き残っているからです。つまり、嬬恋村の人間にとって鎌原観音堂は、とくべつのものであり、観音堂の観音様ぬきに嬬恋村の文化と歴史はかたれないのです。と言うわけで最初に行ったところは鎌原観音堂です。 天明3年8月5日(新暦)、浅間山が大噴火を起こし、土石流が鎌原村をおそいました。村の高台にあった観音堂などに逃げることができ93人だけを残して、118戸570人の村は全滅してしまったのです。犠牲者たちの心残りは・・・・。そして生き残った人々は、この高台の観音様の御加護を感じずにはいられなかったと思います。 幕府(当時の政府)は、生き残った人たちに、新しい田畑を用意しましたが、村人は拒否しました。新しい田畑に魅力を感じなかったはずはないのですが、なにより観音様を捨てて、よその土地に行くことなんかできなかったと思います。妻を亡くした人と、夫を亡くした人が新しい家族をつくり、親を亡くした人と、子を亡くした人が新しい家族をつくり、土石に埋もれた荒れ地を少しづつ開墾し、百年かけて鎌原村は、奇跡の復興をとげたのです。これも観音様の御加護かもしれません。 ちなみにイタリアのポンペイは、人口の2割が全滅という被害で、住民は町を捨てました。しかし、鎌原の人たちは、8割全滅・生存者2割という絶望的な状況で、鎌原村を復興させています。観音様のお力はすごいものですね。 次に行ったのが吾妻神社でした。 吾妻神社。 こういう名前の神社は、関東地方の至る所にあります。何故かと言いますと、日本武尊の東征と大いに関係有るからです。日本武尊は、兵を率いて関東東北に向かいましたが、その途中で奥さんを失っているのですね。それを悲しんで「わが妻は・・・・」と歌ったわけですが、この言葉から「アガツマ」という地名や神社がたくさん生まれました。その一つが『吾妻神社』なのです。さて、この吾妻神社ですが、とても深い意味と云われが存在しています。四阿山や鳥井峠や吾妻渓谷にも関係してきます。興味有る方は、こちらをどうぞ。 吾妻神社は、鎌原観音堂と同様ににぎやかだったです。地元の人の信仰が、こんな世の中であっても保たれていました。これも日本武尊の奥様を思う気持ちが、末代まで伝わった結果だと思います。思えば日本武尊は、悲劇の武将でした。彼の物語は、涙無くしてかたれませんが、その物語については、別の機会にとっておきます。 さて、最後に向かったのは、軽井沢高原教会です。吾妻神社も鎌原観音堂も賑やかでしたが、軽井沢高原教会には誰もいなく、静寂と寂しさのみが漂っていました。これは、キリスト教と正月には、あまり関連性がないからなんでしょうね。なにせ正月というものは、昔の建国記念日にあたるからです。日本が生まれたのは、正月一日午前0時。昔からそういう言い伝えになっているからです。けれど旧約聖書には、世界が生まれたのが正月一日午前0時とは書いてありません。 |
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