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草軽鉄道・廃線跡地草軽電鉄の創業は、スイスの登山電車のように高原の避暑地へ、又、草津温泉へと旅客を導くというアイデアに端を発し、さまざまな努力によって会社設立へこぎつけました。明治45年2月草津軽便鉄道株式会社発起人一同による「創立の趣旨」の中には次のように書かれています。「本鉄道は、一面草津その他沿線の旅客を目的とするとともに、草津方面に出入する物資及び長野原・嬬恋・吾妻牧場付近より積み出す木材・薪炭・その他貨物輸送のため、この地方の発展に資するところあらんとする。」 この鉄道は、建設費を抑えようとしたため、急曲線やスイッチバックがいくつも存在し、山岳地帯を走るにもかかわらず、トンネルは存在しませんでした。勾配がきついところではブレーキをかけるのが大変だったと言われてもいます。それに加え、本来軌道敷に必要な砕石も敷かれない区間もありました。線路規格も極端に低いものであったことから、55.5kmを走破するのに2時間半 − 3時間を要しました。 高原地には、嬬恋・北軽井沢等の途中駅がありました。高原列車として親しまれ、1951年には日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』にも登場し、当時の様子を知ることができます。しかし、1935年に渋川 − 草津間などに国鉄バスが運行開始され、一般のバスの大型化が進むなど、草軽の輸送力は、他の輸送手段に比べてその差は歴然としており、乗客は次第に減少しました。 さらに国鉄長野原線の開通により利用者が激減。台風災害は草軽創設以来、鉄道施設に最大の被害をもたらし、第一次廃線として1960年に新軽井沢 − 上州三原間が廃止。採算性もとれないと判断されていた上州三原 − 草津温泉間も1962年には廃止になりました。 現在、廃線跡は、大幅に崩れておりガイドなしでハイクすることは難しくなっています。充分に事前調査を行うか、北軽井沢ブルーベリーYGHをはじめとする、地元ガイドの同行が無難です。 |
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