|
|||||||||||
オリンピック記念館 絵本の森美術館 ペイネ美術館 野の花美術館 軽井沢高原文庫 エルツおもちゃ博物館 軽井沢タリアセン 浅間山荘事件記念碑 軽井沢植物園 ル・ヴァン美術館 南が丘美術館 軽井沢型絵染美術館 軽井沢彫り 01.旧軽井沢 02.軽井沢 03.南軽井沢 04.中軽井沢 05.高峰・池ノ平 06.信濃追分 07.北軽井沢 08.浅間高原 09.バラギ高原 10.長野原町 11.鹿沢高原 12.万座・白根山 13.草津 14.六合村・野反湖方面 15.川原湯渓谷・他 16.中之条・四万温泉 17.倉渕・吾妻・榛名高原 18.松井田妙義方面 観光サイトマップ |
浅間山荘事件記念碑(治安の礎)昭和47年2月に発生した連合赤軍による「あさま山荘事件」から30年。この事件は人質となった山荘管理人の妻の無事救出と、警察官2名の殉職と多数の負傷者、また一般人1名の死亡という結末で幕を閉じました。その事件を報じる新聞の見出しは「人質の無事救出」であり、警察官2名の殉職は小さくなっていました。当時のマスコミは、連合赤軍などの極左暴力集団を過激派と呼び、同情的な報道をし、成田空港反対闘争では、マスコミの車が、そのような暴力集団が使用するためのゲバ棒(角材)を運搬しているところを発見されたり、昭和46年8月に埼玉県の陸上自衛隊の朝霞駐屯地で起きた自衛隊員が殺害された事件では、犯人をかくまった新聞記者が裁判で有罪判決を受けたくらい左翼に同情的でした。 ですから警察には、最後まで拳銃使用許可が下りなかったし、担当だった佐々淳行氏は、取材するマスコミから 「なぜ強攻策に固辞するのか」 「犯人たちを逃がせば人質は助かる」 と食ってかかられたとのこと。 しかし、ライフルをもって自分の母親にさえ射撃する犯人を逃がすことなど、できるはずもありません。かといって拳銃は使えない。人質の命は危ない。あとは突撃のみですが、拳銃なしに突撃するには、クレーン車につるした鉄球で山荘の壁を破壊して人質の安全を確保するしかなかったのです。 あさま山荘事件の顕彰碑「治安の礎」は事件の翌年の1973年にあさま山荘を後方に臨む別荘地の入り口に建てられました。碑の後ろには事件の教訓と犯人の凶弾に倒れ殉職された二人の警察官の功績を称えた文章が刻印されています。また、碑の右横には事件当時の様子が刻まれた銅板がはめこまれています。
|
||||||||||
古い情報もございますので、必ず最新情報を確認するようにしてください。 軽井沢周辺案内のトップページに戻る|サイトマップ 軽井沢観光|北軽井沢観光|北軽井沢散歩道|北軽井沢物語|軽井沢グルメガイド|北軽井沢のユースホステル |